劇作バトル、というのを観に行った。演劇関係でない僕には言葉のニュアンスがわからなかったのだが、リーディング公演というやつ。これに飲み屋の知人が、出るという。
へー、と思って聞いていたが、脚本がケラリーノサンドロヴィッチで本人のトークもあるということなので、チラシも貰っていない段階で「行きます」と即答した。
さらに後日詳細を聞くと、土田英生との対談とか。しかも1000円。これは拾い物をしたな、という気分。
ついてみると、劇作家協会のイベントでどことなく場違い感もあった。内容としては社長吸血記の一部をリーディング、その後、作品についての対談。
リーディングはリーディングであっても十分に面白かった。僕は別役実のエッセイを溺愛しているので、特に対談でケラが別役パートと読んだほうは楽しめた。「思いがけない」という言葉は別役実が想像した言葉で、それ以前には実は存在しなかったんじゃないか。そう思わせる何かがある。
対談は若い劇作家、劇作家を目指す人に向けてという色が強かったのだが、途中から僕は劇作家の仕事と、自分の開発ディレクターという仕事の共通部分にうんうんと頷き、学ぶことになった。
例えばケラさんが役者に寄せた脚本、いわゆるあてがきは好きじゃなくて、もともと誰それを想定してセリフを書いていたが、別の役者にやらせよう、ということがある。それは役者から役をつくると、劇団として飽きる、学びがないと。
僕も何を作るか考えて、それを誰に担当させるか考える。メンバーの誰それがこういう分野に強いから、こういうのを作ってみたらどうかというアイデアが出てきたりする。それはとても効率のいいことだ。だけど企画段階で人に引っ張られていてフラットな検討になっているか不安だし、学びがない。企画段階でメンバーの得意不得意を考えすぎないこと、仮に考えても最後に担当を決めるときにはそれをリセットしてみること。そういう学びがあった。
あとは脚本というのは意外と事情でできているということ。窓から上半身を出して出てくるシーン、これは実は下半身は次に備えて着替えているからとかそういう衣装替えのこと。もっと大きくいうと、とある役者がこの日の稽古に来れないから、このシーンにはこの役は出ない。作る側の人間からするとそういう裏側がある。
これはどんな仕事でもそうなのだと思った。世界は事情でできている。しかしその事情にただ振り回されては駄目で、それすらも面白おかしく価値あるものに昇華していくべきだ。
あとは土田さんが、自分の書いた一つのセリフが好きすぎて、削るべきシーンを削れなくなってしまう。悩む以前に自分では前提としてそのシーンを削るという選択肢が見えなくなるという話をしていた。
わかる。企画書を書いて、その中の瑣末な一部分がやけに気に入ってしまう。冗長でも削れない。なんならそれが企画の根幹だと錯覚する。開発フェーズになっても、機能のごく一部のちょっとした画面の動きや実装に愛着が生まれてしまう。土田さんも最終的に人に見てもらって冷静になると言っていた。客観性が大事で、こういう状態は人に見てもらわないと解消しない。
あとは憧れとオリジナリティについて。ケラさんでいうと別役実。土田さんはいろいろな人について言っていたが、ウッディアレンの話が印象に残った。好きだから作品は何度も見るが、そのうち自分こそがウッディアレンという気持ちで、その上でこのシーンはなかったことにする、このシーンとこのシーンの間には実はこういうシーンが挟まっている。そういう妄想が始まる。
これがオリジナリティで、自分としては模倣しているつもりでも、結局似ないし違うものになる。
仕事で、オリジナリティを作るのは案外、俺は本人以上に本人の仕事を理解していてそれらしいものを作っている、そういう妄執なのかもしれない。
あとはその二人のことなので、笑いに関する話も多かった。どう笑わせるかというよりも、笑いの怖さの話が多かった気がする。
役者もときに作家も、客の笑いに敏感で、あるシーンで笑いを取れるとそこに寄せた芝居をしてしまう。これはいろいろな意味で怖い。脚本本来の面白さが損なわれること、笑いを意識してしまうと逆にウケなくなる。もっとも響いたのは笑いという反応は観客の反応のうち突出して声が大きく見えやすいこと、怒りとか悲しみとか感動とか、見えづらい反応もいろいろある中、笑いばかりが目についてしまう。
どんな仕事でもわかりやすいリアクションが見えると注目してしまうがそれに脊髄反射で寄せてしまうのは考えものだ。
つらつら帰りの電車で書いていたが学びの多い日だった。なにより、そういえば観劇楽しかったのを思い出して、MONOやナイロンの芝居、定期的に見に行こうという気になった。楽しみだ。