生前葬といってもしめやかな感じではなく、にぎやかな感じのやつ。
エル・ラティーノのマスター川端さんから、何年か前にも周年兼ねて生前葬という話は聞いていたけど、たしかに台風で流れていた。
エル・ラティーノには大学時代から10年以上通っている。ゼミ終わりの飯、デート、サークルの歓迎会、遠方から人が来たときのもてなしと、ありとあらゆる用途で通っていた。
その当時は店は今の場所のビル内隣のテナントにあり、やや広くて店員も少しいた。店内は暗いのだが、マスターの川端さんはテーブルのろうそくを女性がいないとつけてくれなかった(もしくは渋りながらつけていた)。ひどいどんぶり勘定で、学生4人で楽しく飲んで、会計に行くと伝票を探すのを放棄してぼくらの顔を見て「1人2000円(明らかに安い)で勝負しとこか」とか言ってくれる。
その後、数年東京にいたが、戻ってくると「おかえり〜」と出迎えてくれる。これは通常の挨拶だ。店は隣のテナントに移っていて、前より狭いが明るく、アットホームな感じになっていた。会計のどんぶりさは少しマシになっていた。
京都に戻ってきて1年ぐらいするとメタボ岡崎に引っ越したのだが、エル・ラティーノまで徒歩2-3分になった。仕事終わりにタコライスを食べに行ってアッコさんとだらだら喋ったり、飲み会帰りに少し飲みたりなさをおぼえて入ると、カウンターで1人腰掛けている川端さんが手元で空いているワインを注いでくれたりする。
距離が近くなったのでゆっくり2人や店の歴史の話を聞くこともちらほらあった。あるとき、カウンターの隅にシルバーのアクセサリーがいろいろ置いてあって、アッコさんに何かと聞くと、川端さんの昔の商売関連のもので、持て余して置いてあるのだという。気に入ったのがあったので買えるかと聞くと、「いま川端さんおらんし、もらっとき」と言われて、「え、そうなん」とおもったけどややあってシルバーのリングとネックレスをもらっておいた。なお、そのネックレスは翌日ぐらいに当時気になっていた女性(現在の妻)と飲んだときに「これ、似合うと思うんであげますよ」と言ってあげた。
その後、妻と一緒に住むようになって引っ越した。メタボ岡崎と変わらず東大路丸太町のままで、さらにラティーノに近づいて、家からの距離が100メートル以下になった。妻もラティーノには居着いていて、遅めの時間に飲みに行くと、さっきまで妻がいたことを知らされたりする。年末年始も開いているので、大晦日に飲みに行ったりもした。川端さんが「初詣いくで」と言うので、よっしゃ平安神宮かと思うと、向かいの通りの熊野神社で拍子抜けしたりしていた。
また川端さんは妙な界隈で顔役みたいなところがあり、ロームシアターのプロレスで開催の挨拶をしていたりする。よく見ると店内にアジャ・コングのサインがあったりしていてどうもプロレス界隈では顔が利くらしい。また学生にもなつかれていて、熊野寮のお祭りにも結構関わっていてようだ。ぼくも出店したりした。
コロナが流行りはじめて、しかも妻が妊娠したりすると、殆どの店と同じくラティーノになかなか行けなくなってしまった。ちょくちょくはテイクアウトでタコスやワカモレを作ってもらったりした。
そこからさらに引っ越すことになり、今度は少し遠くなってしまった。気楽にテイクアウトも行けなくなったのだが、時折車で取りに行ったりしている。
先日、ようやく子連れで食事にいくことができた。落ち着けるかというとあまり落ち着けないのだけど、どうにか1時間少々飲み食いすることが出来て満足だった。
ぼくは個人経営の飲食店に依存して生きていて、エル・ラティーノはその中の大事な店だ。新しい店も時々増えるが10年通った店というのはそうそう増やせない。
そんなラティーノの30周年、川端さんの生前葬となると行かないわけには行かない。母親を呼んで子どもの世話を頼み、2人で行ってきた。
子どもたちが「リメンバー・ミー」を歌う中、プロレスラーに棺を担がれて入場。気がつくと妻が少し泣いていた。
棺から出た川端さんは、そのまま挨拶もなくマリアッチの後ろでマラカスを振っていた。こういうよくわからない段取りも憎めない。
その後、説明が難しいけどハイペースでライブとプロレスが行われていたのだが、演者も客もエル・ラティーノのファンしかおらず、なかなか見ないハッピーなイベントだった。
アッコさんと妻との写真。途中で帰らないといけなかったので、川端さんとは写真を取りそこねてしまった。
妻とは40周年は子どもを連れていけるだろうかとかそんな話をした。しかし生前葬はすでにやったので、どういう建て付けになるのかわからない。ぼくとしては、次は「こんどこそ本当に最後の生前葬」で、その次は「まさかの復活祭」にしたら良いんじゃないかと思っている。