ミネムラ珈琲ブログ

AI画像Tシャツ屋/ITラノベ著者/さすらいのコーヒー屋/WEBサービス開発チームマネージャーの日記

オンラインで哲学の講義を受けていた

1年ほど前にIT界隈の友達と喋った時に関わっているサービス、disséminer(ディセミネ)のことを教えてもらった。

disseminer.jp

オンラインで人文学を学べるサービスで、主に若手の研究者のオンライン講義が受けられるもの。高校時代は科目としての倫理が得意で、暇つぶしに参考書とノートを読み返すだけで90点未満を取った記憶がない程度には人文系の学問は好きなので、ユーザー登録をしてちまちまと講座開講のお知らせメールとかを受け取っていた。

しかしこの講座がまあまあこってりした内容のものばかりが並んでいる。

『多様性はなぜ守られるべきか——哲学からの正当化の試み[理論編]』とかはギリギリ喰らいつけるイメージはあるけど、『ハイデガー存在と時間』を読む[死、時間、歴史編](演習)』とかはさすがに無理。

そんな感じなんだけど、昨年の秋にふとお知らせで届いた『「他者」とは何か——エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』から考える』が気になって、せっかくなので一度受けてみることにした。

disseminer.jp

正直レヴィナスのことは全く知らない、あるいはおぼえていない。後からわかったことだが、哲学者としての注目度が上がってきたのがここ20年ぐらいの話で、おそらくぼくが高校の時分にはそんなに取り上げられる人物ではなかったのだろう。そういうこともあったので、よく知らないし受けてみるかという態度で申し込んだ。これはひどく迂闊な態度ですぐに後悔することになる。

開講が近くなり、改めて授業予定などをながめて思った。

第1回 2024年11月11日(月)20:00〜21:30 イントロダクション——〈同〉と〈他〉/全体性と無限

第2回 2024年11月25日(月)20:00〜21:30 デカルトと無限の観念

第3回 2024年12月9日(月)20:00〜21:30 私と他者①——他なるものの享受

第4回 2024年12月23日(月)20:00〜21:30 私と他者②——他者の顔と倫理

第5回 2025年1月13日(月・祝)20:00〜21:30 私と他者③——エロスの現象学と他なる時間

第6回 2025年1月27日(月)20:00〜21:30 デリダによる批判

第7回 2025年2月10日(月)20:00〜21:30 存在とは別の仕方で、あるいは存在の彼方

あ、これ絶対ついていけないわ。

このままでは無駄に1万以上の金を払って、無為な時間を過ごすか、あるいは途中から出なくなる。そう思ったので慌ててテキストの『全体性と無限』を買う。というかよく考えたら大学の講義だと思うと、テキスト買わずに講義出る時点で舐めているので、ここで気づいてよかった。

いや、よくなかった。実際のところ読んでみると何言ってるのか全然わからなかった。そもそも集中して本を読むスキルが衰えている。あえて難しいものを読みにいくことがここ最近滅多にない、そしてレヴィナス基本的に何言ってるかわからない。ヤバすぎると思って適当にAmazonで検索して『レヴィナス入門』を買った。

レヴィナスの生い立ちとかやさしい感じで始まったものの、やはりだんだんと何言ってるかわからなくなる。非常にまずい。どうしてこんな講義を受けようと思ったのか、後悔の日々を過ごして開講を迎えたが、一応この予習がなかったら突然出てきたわからない言葉たちがわからないままに通り抜けていたと思うので、何事も準備しておくものだなと思った。

講義はわかりやすいYoutubeの番組のように図が出てきたりすることもなく、原著や関連テキストの引用と軽い解説が続いていく。

形而上学は「ほかの場所」「別の仕方」「他なるもの」へと向けられる。(......)

形而上学的に欲望された〈他〉は、私が食べるパン、私が住む国、私が眺める風景のような「他なるもの」ではないし、しばしば私自身が私自身にとってそうであるような、この「他者」としての「私」でもない。これらの現実を、私はあたかも単に不足していたかのように「むさぼる」ことができるし、かなりの程度まで自分を充足させることができる。まさにこのことによって、これらの現実の他性は、思考し、所有する者としての私の同一性に吸収されてしまう。

形而上学的欲望は、まったく他の物を、絶対的に他なるものを目指す。(......)

〈欲望〉とは、絶対的に〈他なるもの〉への欲望である。充足される飢え、癒やされる渇き、鎮められる欲情の外部で、形而上学は充足を超えて〈他なるもの〉を欲望する。

『全体性と無限』39-42頁

どうにかこちらもついていこうと、ブツブツと講師について読みながら、手元のCosense(Scrapbox)にメモを取る。

そうしていると意外とどうにかなって、「雑に理解するとこういう感じかなー」ぐらいの感触は得られてくる。まぁ雑にわかった気になるのもよくないのだろうが、それにすら至らないよりはだいぶ良い。意外と1時間半楽しく聞くことができて、そこからは隔週で講義を受ける約3ヶ月間が始まった。

始まってみると、シビアにテキストの該当箇所を読み返したりなどがなくても、一応ついていける(理解度はともかく)。一応せっかく受けるからには、全部リアルタイムで出ることと、あと毎度Google Classroomで課題というほどではないけど講義についての質問やコメントを出すものがあるので、それは出すことにした(1、2回は出しそびれた)。

雰囲気は大学こういう感じだったなというのを少し思い出す感じで、良くも悪くもサービスとして何かを教わっているのとは違う、学びにきているという感じ。ひとしきり講義を終えた後に質問の時間があったりするが、そこで他の参加者の質問を聞いたりしているのも面白い。同じ講義を聞いた後でも、他の人はレヴィナスの当該思想を寛容だと捉えていたけど、ぼくは残酷だと捉えていたりして、そんなことを質問時間で会話するシーンもあった。歳をくっているとベースになっている価値観、と言ってしまうと先入観や偏見みたいでチープだな、どっちかというと知識とか世界を捉える視点とかがある程度あって、それぞれベースが違うので感じることが違ったりする。自分はなんだかんだ経済とか金勘定で生きてる人間だなとかレヴィナスを読みながら気付いたりする。

講義を重ねるにつれ、なんとなく「レヴィナスこういうこと言いがち」みたいなある種の舐めた態度が形成されてきて、自分なりにはこの舐めた態度がある種の理解なのだなと思えたりしていた。が、そうやってストレスが軽減されてきたところで、レヴィナスに対するデリダの批判の引用が始まると、デリダの言葉のノリについていけず困ったりする。そんなこんなで全7回を先日受け終わった。

結構満足している。なんかストックホルム症候群みたいな言い方になってしまうけど、ここで金を払わなかったらぼくの人生でレヴィナスについて一定の学びを得る機会はなかったと思う。もし仮に『全体性と無限』を手に取る機会があったとしても、それを読まないといけない状況にないとおよそ10ページも読まずに放置したと思う。講義の内容が全部Youtubeにあがっていても、1回1時間半の全7回を時間をとって聞くスケジューリングをする気になれない。時間をとったところで、真剣にメモを取りながら聞いたりはしないだろうし、すぐに諦めていると思う。

ディセミネ、おすすめだけど「入門★★★」みたいなのは入門って言葉に騙されるとやばい、ということは言っておきたい。ディセミネにおける入門は、日本語以外のテキストを読むことを求められない/難解なテーマをゼミ形式で発表させられない、というぐらいに理解している。

disseminer.jp

ちなみに今は短歌の学習コースを受けている。こちらは食後に飲酒した後でも気楽に聞けるし、課題で画像から連想する短歌を提出して講評を受けたりしていて普通に楽しい。楽しいのだがしかしそろそろ歌会のための自由詠を一首作らねばならず、一首なんだけど、一首しか出せないってことは適当に思いついた一首を出すのは恥ずかしいというか勿体無い。そうすると少なくとも10首ぐらい作って、良さげなやつを推敲した方が良いんじゃないか、しかも自由ということはテーマ自体も自分で探す必要がある。どうすればいいんだ。

金を払い時間もとったというのに困り果てて暮らす潤い

一首できた、よかった。

disseminer.jp