こんにちは。先週引っ越してからようやっと自宅のネット環境を整え、久々のインターネット体験に打ち震えています。
早速ですが引越しのことはさておいて『新感染』のことを書きたいと思います。
新感染のことは、去年の冬から名作なのに邦題がダサいという情報だけ得ていて、どうなんだろうなと思って満を持して見に行きました。
観た上で言うのですが、この邦題はアリ、いやむしろ深いコンテキストを掴んだゾンビ映画的なセンスの光る邦題ですよこれは!ということだけ先に言っておきたい。
以下本作および各種ゾンビ映画のネタバレを含むのでご注意ください。
目次
コッテコテの古典派ゾンビ映画
ナイト・オブ・ザ・リビングデッドに端を発するゾンビ映画というジャンルは一定の成長期を超えていて、もはやいかにハズすかを随分やり尽くしてきた。
- 笑いに持ち込む(ショーン・オブ・ザ・デッド)
- ノロノロの対比項として老人ホームのおじいちゃんおばあちゃん(ロンドンゾンビ紀行)
- POVモキュメンタリー(REC)
- オタクの成長ストーリーと徹底したエンタメ(ゾンビランド)
- グローバリゼーション(インドオブ・ザ・デッド)
- ゾンビ+ロマンス小説の継ぎ接ぎ(高慢と偏見とゾンビ)
そんなところは前提で、時代は意識のあるゾンビとゾンビ視点に移っていて、ウォーム・ボディーズなんか観てるといまさらゾンビに逃げ惑う人間視点なんかやってられっかよというところではある。
そんな中で新感染はド直球。
- 何が起こっているのかわからず戸惑う人々のパニック。
- とにかく窓を叩きまくるゾンビ。
- 家族や友人がゾンビになり、正しい行動を取れない人々。
- とにかく大量のゾンビに囲まれ、逃げ惑う。
- ゾンビに囲まれ、目の前に危険があっても、なおも助け合えない人々。
ショッピングモールシーンこそなかったものの、もうコッテコテ。主人公ソグたちが15号車まで移動してきて、ヨンソクらに阻まれ、罵られ、隔離されるシーン。いやはやこんな古典的なゾンビ映画的展開をいまさらやられるとは……。
さらにいえば、2度めに3人だけになって走りながら電車に捕まっていくシーン。ゾンビたちが連なってまるで龍のごとく、1つの生き物のように動くシーン。近年の大型、そしてある種古典的なゾンビ映画代表ともいえるワールド・ウォーZのイスラエルの壁が破られるシーンをまるっきりとりいれたものになっている。
全般的にゾンビの動きのディティールもすごくいい。階段を降りて兵士のゾンビたちが待ち受けているシーンなんかの、それまでぼーっとしていたゾンビたちが一斉に動き出す静と動。電車を飛び越えてくる躍動感。折れた腕がひん曲がったまま動き出すゾンビの不気味さ。ストーリー抜きで無音でみてもたぶんすごくいい。
2017年にもなってこんなにわかりやすくていいゾンビ映画にお目にかかれるとは思っても観なかった。しかしこんなものが作れてしまうのは、ただの古典派にとどまらない圧倒的な魅力があるからで、だからこそこの古典的な要素が光ってくる。
基本を外さない、主人公の父親としての成長
主人公の成長は映画における基本的な魅力だが、古典的なゾンビ映画では人々は成長しない。成長するのはゾンビの数だけだ。
ゾンビランドがおもしろいのは、身を守るためのルールを守って危険を冒さず保守的で、だからこそモテない主人公コロンバスが、ルールの殻を破り、苦手なピエロを克服し、愛を勝ち取るからに他ならない。
新感染ではゾンビ映画的な基本を抑えつつ、主人公の成長がかなり明確に描写される。この点は他の感想ブログを読んでみても顕著だった。
ファンドマネージャーである主人公・ソグは列車内パンデミック発生後、安全な車内に駆け込もうとするサンファとソンギョンを見捨て、ドアを閉めます。その後再度解錠され2人は救助されるのですが、ソグはこの後、列車連結部の座席を老婆に譲るスアンに「こういうときは自分が助かればいい」「他人を助ける必要はない」と話し、軍関係者のコネを使い自分たちのみ検疫を逃れられるようテジョン駅で別ルートを用意させるなど、自己中心的な父親としての面を明示します。
それに対象となるように、サンファ夫妻は他者への思いやりを持った温かみのある人間として、テジョン駅での暴動では自分たちを殺しかけたソグをも助け、以後それぞれの家族を救うため、恋人が先頭車両に乗るヨングクを含め、共闘することになります。ソグはこの後のシーンより明確に「ドアを開ける側」の役割として動き始め、ソンギョン、老婆といった弱者を救うため自ら率先して危険に飛び込み、ゾンビの特性を見抜いては弱点をつくなど、ヒロイックな活躍を重ねていきます。
上記ブログを読んでいると、その点(いやその点以外の地理・歴史的背景とかいろいろも)がわかりやすく書いてある。
ゾンビ的な基本と、成長ストーリーが両立している稀有な映画といえる。
日本人だから楽しめる東アジア的舞台背景
これは単純なお楽しみ要素かもしれない。
一軒家にゾンビが飛び込んでくるとか、高速道路で車が玉突きで詰まっているとか、「頭を狙って撃つんだ」とか、正直日本のそこそこ都会で暮らしているとまったく現実感はない。
新幹線という狭苦しい舞台や武器はせいぜい木製バットという状況は同じ東アジア人として、ほかのゾンビ映画よりもよほど親身に観ていられる要素になっている。
個人的には、アメリカが前提のゾンビサバイバルガイドには書いていないが、手にガムテープを巻け、というのは東アジアの人のための重要なオプションだと認識できた。
しかしながらこんな東アジア的な舞台設定が世界で受け入れられているのは、世界全体がナイト・オブ・ザ・リビングデッドのような田舎の一軒家的な舞台よりも、東アジア的な狭苦しい舞台設定に近づいているということなのか、もしくはその舞台の違いを補って余りある本質的な面白さが新感染にはあるということなのだろう。
まさかのラストシーンでのアレ
トンネルを通るスアンとソギョンに銃口を向ける兵士をみて、「おいおいおいおい、まさかまさか」とゾンビ映画をかじっている人間なら思わざるをえない。
現代ゾンビ映画のルーツであるナイト・オブ・ザ・リビングデッドの有名なラストシーン、ひとり生き延びた主人公が軍隊にゾンビと思われて狙撃されて即死する救いのない展開。
古典を追求するあまりに、無垢な少女と身重の女性にそんなエンディングを用意してしまうなんて、あっていいのか。
そう不安に思っていたら、その不安と期待を裏切り、ハッピーエンドを迎える。ここまできて、この映画がただの古典的なゾンビ映画ではなく、古典的な魅力を詰め込みつつ新しい地平を切り開く、まさに新古典派ゾンビ映画として完成する。
「新」感染とはよくいったもので、新幹線が舞台になっているだけのダジャレのようでいて、古くて新しいゾンビものとして、これはまさに新感染としかいいようがない、秀逸なタイトルになっている。批判もあったが、僕はこのタイトルはゾンビ映画に愛のある人が覚悟とともにひねり出した渾身の邦題だと思う。
インターネット的なツッコミどころの多さ
最後に、今日はゾンビ映画仲間であるid:chris4403さんとこの映画を見に行っていて、終わってから感想を話していたが、話題の中心は「良かった、しかしツッコミどころは多い」というところだった。
- Youtubeでアップされた動画みたいなのあったけど、撮ってるひと食われてない?だれがアップしたの?
- え?2分しかないのに作戦は決まってないの?
- しかも作戦が荷台の上を這うなの!?
- そしてとにもかくにもあの炎上して突っ込んでくる列車はなんだったのか!!!
ほかにもツッコミどころ満載なのでぜひ観て探してほしい。僕としては炎上列車の脈絡の無さと意味不明さに圧倒されて、ほかのことは指摘されるまであんまり気にもならなくなっていたのだけど、思い返すと無茶苦茶多い。
こういうのはなんだかインターネット感があるなと思っていて、誤脱字でツッコミ要素が残って拡散されてしまったり、釣り投稿であえて書かれる不審なディティールのように議論を生む要素、なんだかそんなインターネットっぽさを新感染には感じてしまう。そして共通して言えるのは、ツッコミどころがいくらあったとしても本質的に面白いコンテンツは色褪せることはないということだ。
chrisさんが最もツッコミどころに感じていたのは、ラストシーン、トンネルでスアンが歌を歌って、狙撃を免れる所。あんなどこにゾンビがいるかわからない暗闇で歌うなんて無茶苦茶だろうと。たしかにそうなんだけど、ぼくはハッピーエンドのための歌は許容されると思っている。
「Tout finit par des chansons.全ては、歌で終わる…とさ。」 (からくりサーカス(43) (少年サンデーコミックス)フウのセリフより)
シャンソンのように全ては歌で終わる*1。そういうお約束のためなら、ご都合主義ぐらいあってもいい。
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