ミネムラ珈琲ブログ

AI画像Tシャツ屋/ITラノベ著者/さすらいのコーヒー屋/WEBサービス開発チームマネージャーの日記

愛の定義について、『アルドノア・ゼロ』を見て

ここのところめぼしいドラマをひとしきり見てしまったのでアニメを見ることが増えた。で、最近見ていてさっき見終わった『アルドノア・ゼロ』について。

www.youtube.com

完璧過ぎる主人公というのはあんまり好きじゃないけど、いいアニメだった。

(以下の感想は見てないとよくわからないことを書いていると思いますが、わからないことは重要ではないので気にせず読んで下さい。気になった人はWikipediaでも見るか、お時間があればAmazonPrimeで見てください。)

珠玉なのは22話、主人公、伊奈帆がアセイラム姫を前に倒れて気を失い、アナリティカル・エンジンが伊奈帆に代わって応答するシーン。

「界塚 伊奈帆の思考、認識及び発話機能を一時的に代替する。この少年はアセイラム姫殿下を自己とは違う個体と認識しながらも、自己の一部と誤認している。」

「自己の一部?」

「よって最大限、姫殿下の安全をのぞみ、保護しようと行動している。」

愛するとは、他者を自己の一部として認識すること。このアイデアのオリジナルがどこかは軽く調べたけどわからなくて、聖書なのか、哲学なのか、それとも精神分析だったか。

しかしこのシーンが響くのは、伊奈帆の一部であるようでいて、客観的存在かつ機械であるアナリティカル・エンジンが、唯一発話をし、伊奈帆の認識について“誤認”であると平坦な調子で述べていること。

情熱あふれるキャラクターが大きな身振りでオペラさながらにこれを述べても、こういう伝わり方はしない。

ぐっとくる、このシーンのためにそれまでの22話があったといえる珠玉のシーンだった。

そして僕はこのシーンを受け止めるのに非常にいい立場にいるといえる。

離婚に至るまでは、たしかに元妻のことを自分の一部のように認識していて、それにもとづいて振る舞っていた。

それがはっきりわかるのは、別れた後に元妻のことが全くの他人だとしか思えなくなっていて、自分の一部のように認識した振る舞い、たぶんそれが愛のある振る舞いということなんだろうけど、そういう振る舞いが全くできなくなったからだ。

自分のことながら、行動原理が変化したのをひしひしと感じていた。事務的なことで連絡したりしていて、以前は当たり前に受け止めていたちょっとしたことが許せなくなった。

そうなってみて、そもそも価値観が違ったんだなと思うようになったけど、結婚していたときはそんなことは思っていなかった。自己の一部と誤認していれば、そもそも違うなどとは思わないのだろう。

愛とは、他者を自己の一部と誤認すること、非常にいい定義だと思うし、『アルドノア・ゼロ』は心に残るいいアニメだった。

その上でだけど、僕はもう一度、誰かのことを自己の一部として誤認したいと思っている。

ALDNOAH.ZERO アルドノア・ゼロ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

ALDNOAH.ZERO アルドノア・ゼロ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)