僕がミネムラ珈琲になったわけ

こんにちは。

この記事ははてなスタッフアドベントカレンダー14日目の記事です。昨日はid:tomomiiさんの「サーバとわたし」でした。

はてなスタッフアドベントカレンダーのテーマは「好きなもの」です。今日は僕のはてなidid:minemuracoffeeになった理由について書こうと思います。

目覚めの高校時代

コーヒーを初めて飲んだのがいつだったのか、よくおぼえていません。 おぼえているのは高校生の頃、アルバイト先のマクドナルド裏手の駐車場。

駐車場と缶コーヒー

僕のシフトは平日は17時から22時の閉店作業まで、土日祝日は開店からだったり日中だったり、夜までだったり、日によりけりだったけどたいてい7,8時間。

はじめた当初の時給は710円*1。立ちっぱなしだったし、軽い火傷は日常茶飯事、資材搬入では20キロ前後のダンボールを20-30箱運び込むなんてことも毎週のことでした。

そんな仕事終わりや休憩時間、店舗裏の駐車場の倉庫でよく缶コーヒーを飲んでいました。最初は普通の缶コーヒーだったのが、いつのまにかブラックを飲むようになっていました。

ある日、ランチのピークタイムがひどく忙しく、ぐったりと疲れきったことがありました。その日は休憩時間に缶コーヒーを2本飲み、後の仕事をやりきりました。

身体を動かす仕事はそれきりやっていません。自分でも意外ですが、結構楽しい仕事でした。運動が苦手な僕がそういう仕事をやれたのは、あの駐車場の缶コーヒーがあったからだと思います。

筑紫哲也とインスタントコーヒー

高校3年になりアルバイトをやめて受験勉強をはじめました。それまでの勉強不足が祟ってひどい状況でした。遅れを取り返そうと、とにかく夜遅くまで勉強しました。

区切りをいれるのは23時台。筑紫哲也NEWS23を見ながらインスタントコーヒーを飲んで休憩していました。そこで休むとあと2,3時間乗り切ることができました。

それから無事、大学に入ることができたある日、筑紫哲也が亡くなったニュースを見て驚きました。振り返ってみるとニュースの内容は何もおぼえていなかったのですが、ただただ感慨深いものがありました。

飛躍の大学時代

大学時代はそれまでの缶コーヒーやインスタントコーヒーから、質も量も大きく飛躍する時期でした。

一人暮らしとコーヒーメーカー

大学に入って一人暮らしをはじめ、大抵の大学生がそうであるように僕の生活の質は著しく落ちました。食生活は健康とは程遠かったし、昼まで寝ている平日もしばしば。

いろいろなことが単純ではなくなって、楽しいことも多かったけど、神経をすり減らすことも多かったと思います。

そんな時期ですが、コーヒーに関してだけは格段に質が良くなりました。コーヒーメーカーを買ったからです。スーパーで粉を買って、朝(昼であることもおおかった)起きたらたっぷり2,3杯分ゴボゴボと沸かしてしまう。

インスタントコーヒーに比べたら随分うまいものだし、一人で飲むには十分過ぎる量を作れる。

大学に行かない日も、出かけない日も、人と喋らない日も結構ありましたが、コーヒーだけは毎日飲んでいました。

しかし、そんなコーヒーメーカーとの蜜月も、2年ほどで終わりを告げました。量的な意味で深みにハマっていたコーヒー生活を質重視に一転させる出会いがあったのです。

地下室のカフェとハンドドリップ

大学生活も3年目となろうとするころ、人のいなくなった学部内サークルを維持のために引き取って欲しいという依頼を受けました。なんのサークルかはよくわかっていなかったが文化部だと聞いていました。

部室に足を踏み入れてみると、いないはずのメンバーが3-5人ぐらいいました。3-5人と曖昧なのは、所属しているともいないとも判然としない人が何人かいたからです。とにかくそこがコーヒー研究会であり、Cafe Undergroundでした。

暇な時に部室に出入りして、音楽を聞いたり、うず高くつまれた本やマンガを読んでいました。特に待ち合わせることはないけど時折何人か集まってしまうときがありました。そういうときは誰かがコーヒーを入れて、とめどなく話したり何も話さず黙々とそれぞれが暇を潰したりしていました。

とにかくそこで僕は、ハンドドリップコーヒーの味と楽しみをおぼえ、自家焙煎の豆を買える店やハンドドリップの作法を習いました。

その頃よく行ったのは、カフェ・ヴェルディ

僕にハンドドリップを教えてくれた友達の行きつけだったからです。オーナーは、東京にある自家焙煎の喫茶店「カフェ・バッハ」で修行し、独立。バッハ系列の安定したフレッシュな旨さと家族的な温かみをもっています。そうやって僕はハンドドリップにハマりはじめたので、いうなれば僕はバッハの田口護氏*2の曾孫弟子ということになり、いまもドリッパーはバッハ仕様のものを使っているのです。

そうして僕はドリッパーやポット、ミルなどの機材一式を買い揃え、家にいるときは日がな一日コーヒーを淹れては飲むようになりました。

さらに重要なことがありました。それは僕らが不定期に大学の地下スペースでカフェをひらいていたことです。特に目立つ告知をするわけでもなく、日付もさほど選ばなかったので、知り合いしか来ないような日もありました。学祭の時期などは、大勢の人が来てくれていて、毎年楽しみにしてくれている人もいました。

大学を卒業する頃には、僕はCafe Undergroundのマスターでした。

そしてミネムラ珈琲に

大学を出て東京で仕事をはじめ、Cafe Undergroundの看板を離れた後、僕は自分の看板で店をはじめることになります。

仕事と開業

朝と夜には相変わらず自分で淹れたコーヒーを飲んでいましたが、仕事中は缶コーヒーになってしまうのが僕には不満でなりませんでした。 オフィスに機材を一式持ち込み、コーヒーを淹れはじめました。一人で飲むだけではもったいないので、4,5杯淹れて適当に配ります。お金は貯金箱置いておいて、カンパをもらって。

それから一度仕事をやめていて半年ほど働かない期間とかもあったのですが、2社目に働きはじめた会社でもこの習慣を続けました。カンパだと曖昧になって、収支が合わずにモチベーションが落ちがちになるので、今度はよりお店っぽく、値段も決めて。

僕の活動はミネムラ珈琲と呼ばれるようになりました。ただコーヒーを淹れるだけではなく、小さいながらも商売になり、いろいろなことに取り組みました。

  • 小銭のやりとりを減らすためにチケットを作って販売
  • 売上をDB管理しつつ、顧客の支払いを月締めにする販売管理システムの構築
    • ちなみにこの前後にwww.minemura-coffee.comを取得しました。
  • 売上が月締めになり資金繰りが厳しくなったので仕入元にも掛払いの交渉
  • 季節商品として水出しアイスコーヒーの導入(これは結果的に失敗して赤字)
  • ユーザーアンケートを実施して、提供時間を変更
  • 生産拡大のための投資計画新設備の導入

このとき作ったDBはもう破棄してしまったのですが、だいたい年商が15-20万ぐらいで、自分で飲んでいるぶんやサービスで出している分もあるので、2000杯以上は年間淹れていたことになります。

ちなみにこの時の主要仕入先は、西東詩集。少しばかりの席はありますが、カフェというより豆屋。リーズナブルだが質の良い豆を自転車好きのマスターが提供しています。

西東詩集

食べログ西東詩集

サラリーマンながらも小さいビジネスをやっている格好になっていたので、いろいろと勉強になりましたし、なによりそういう商売をすること自体が楽しいのだと気づくことが出来ました。

業務上もプラスが多く、業務外で同僚と一言二言会話をする機会が持てることや、社外の来客時にも提供できるので人脈構築につながることもありました。転職をしても、この商売は変わらず続けました。

そんなところでしたが、いろいろあって大学時代に住んだ京都に引っ越すことになり、僕の店も一時閉店となりました。引越し代で余裕もなかったので、機材は当時の同僚に売却。少しですがのれん代もいただきました。

そして同化

僕自身がid:minemuracoffeeになります。

はてなとネスプレッソ

京都に戻ってきたのは、いわゆる家庭の事情。東京にくらべれば圧倒的にWEB系の仕事が少ない関西で、京都に本社のあるはてなにディレクターとして拾ってもらったのは非常に幸運なことでした。

はてな京都オフィスでは、名前よりもはてなidでお互いを認識しています。僕はid:minemuracoffeeになり、僕自身がミネムラ珈琲になりました。

商売としてのミネムラ珈琲は休業状態をいまもって続けています。従業員としてはありがたく享受している手厚い福利厚生が強固な商売敵としてぼくの参入をためらわせているからです。

とくにつらいのがフリードリンク。お金を入れなくても各種の飲み物を吐き出す自販機をはじめとした各種のドリンク、そしてネスプレッソマシーン。とにかくこのネスプレッソが憎くて、ぼくも毎日食後に飲んでいます。ちなみにネスプレッソはエスプレッソとして扱うことにしています。大学時代に身につけた習慣ですが、エスプレッソでは砂糖を溶け残るぐらいドバっといれて、サッと飲み干します。

あとはオフィスランチと自転車通勤もやっかいで、財布を持たないで一日が過ごせてしまいます。ものを売りたい身としては、財布を持っていない顧客は強敵です。

参入は諦めてはいませんが、慎重を期す必要がありそうです。

再びの生活の質の低下といつものコーヒー

ここまで特に書いていなかったのですが、大学卒業後に結婚をしていました。

そしてこの秋に離婚しました。1年ほどの別居を経ていて、いまさら落ち込むわけでもなかったのですが、守るものがなくなったというか、落ち着く必要がなくなったので、僕の生活は再び荒れはじめました。

まともに料理はしなくなり、レトルトのパスタばかり食べています。酒を控える理由がなくなったので、家でも外でも飲んでばかりいます。スマホも無くしました。

そんな荒れた生活の中でも、僕は僕のためだけにハンドドリップでコーヒーを淹れています。

ケトルでお湯をわかし、手挽きのミルで豆を挽く。ドリッパーとカップをお湯で温め、フィルターを湿らせる。粉をドリッパーにあけて、平らにならす。お湯を注いで蒸らすが、このときの香りをしっかりと味わう。少し待って抽出し、苦味と旨味を楽しむ。

この変わらない一連の習慣が僕のいまを支えています。そういう確信があります。

これからも人生いろいろあると思いますが、これから先もずっと僕の人生にはコーヒーが寄り添っていて、僕はそれに支えられて生きていくのだと思います。

明日はid:mohritarohさんのお話です。

*1:20台前半のひとに話すと驚かれるのですが、最低時給が708円でした。いまなら大阪:850円、東京:900円みたいな感覚と近いと思います。

*2:田口護氏は2000年の沖縄サミットの晩餐会のコーヒー提供を請け負った日本自家焙煎コーヒー界の生きる伝説であり、バッハで学び独立した店は全国各地に多数ある。詳しくは『コーヒーに憑かれた男たち (中公文庫) 』を参照。